
プリンタ技術への思い入れ
<学生時代>
1984年、私が事務機メーカーに就職し、最初に配属されたのが、いわゆるコピー機(複写機)を開発する部門でした。大学では精密工学科というところで、音響振動工学を専攻し、主にはピアノ高音部の不協和音成分の波動分析を研究していました。在学中はアメリカを一人でグレイハウンドバスでまわったり、一般観光客に初めて門戸を開いた中国を一人旅したり、そんなことをしていたため、3月に卒業できず、9月卒業になってしまいました。結果、次の3月まで卒業研究を1年半もすることになり毎日ピアノと汎用コンピュータによるFFTフーリエ解析に明け暮れていました。教授も修士と同様の扱いをするからよろしくやってくれ。と指導していただきました。(ちなみにピアノは弾けません)当時はパソコンと言えば、シャープのMZや、富士通のMircro 8, FM7などテープレコーダにデータを書き込む原始的なものしかありませんでした。もちろん日本語など半角カタカナしか表示できませんでした。
<駆け出し時代>
最初に配属された設計部門では複写機の露光装置、光学系の設計をやっていたのですが、3年ほど経った時、ふと、海外に行こうと思い立ち、1年間の英語猛勉強のあと、会社を休職し、1年間留学することにしました。最初の3カ月はESLクラスに入り、あとは教授に頼み込んで、電気工学科と情報工学科 の授業を聴講させてもらっていました。当時、大学図書館には何十台もApple が置いてあり、学生証を見せれば使い放題だったのは刺激的でした。
帰国後は主にプリンタコントローラという、ポストスクリプトやPCLなどのプリンタ言語を画像イメージに変換する回路基板の設計や画像変換のASICの開発を行っていました。当時は出たばかりのIBM-PC AT XTやAppleのMacintoshなどからのDTPソフト出力から画像生成するというグラフィックス印刷の走りのような時期でした。もちろん英語しか出力出来ませんでしたが。
その後29歳の時、プリンタの拡販のための技術支援のため、オランダへ引越し、西ヨーロッパを飛び歩いていました。ちょうどそのころ、1990年、湾岸戦争が勃発し、物騒な世の中となっていました。今でも会社のテレビでCNNで放映されたイラク攻撃映像にオランダ人社員がみんな釘付けにされていた情景、出征する兵士を載せた列車、空港に配備された戦車の記憶が鮮明に戻ってきます。(欧州からは数万人単位の兵士が多国籍軍として派兵された)
<アメリカで技術者として働いて>
欧州から帰国後、ほどなくして、アメリカ転勤となり、ロサンゼルスの郊外に住むことになりました。ちょうど赴任したばかりのコスタメサの事務所はピックアップトラックで玄関をぶち割られて物品が強奪され、その後処理をしているところでした。その2週間後、大雨で事務所が浸水したり、ロサンゼルスの暴動が発生したり、あんまり物騒なので、事務所もIrvineに引っ越すことになりました。ここにはIrvineスペクトラムというハイテク団地があり、カリフォルニア大学のIrvine校も自宅からすぐだったので、昼間働いて、夜、Extentionコースの授業を取りに行っていました。ここでは、モトローラの68000系のアセンブラによるプログラミングを勉強したりしていました。ちょうど日本にいたとき開発していたコントローラのCPUがMC68000だったので、ちょうど良かったのですが、課題提出には苦労しました。
その後、せっかくアメリカに居るのだからアメリカのビジネスを勉強しようと、事務所から通える距離にある、Webstar University のIrvine分校のInternational business の修士へ夜間、通うことになったのですが、いろいろあり、ヨーロッパ時代の知り合いのミノルタのIさんが、シリコンバレーに研究所をつくるので手伝ってくれと声をかけていただき、転職することになりました。大学は2回授業を受けただけで1996年夏にシリコンバレー、ベイエリアへ引っ越すことになりました。ここでは、複数のアメリカ企業との共同開発を進めていたので、毎日朝から夜中まで超ハードワークを強いられ、大変な思いをしました。
その後、自分たちの会社はアメリカに生産拠点が無かったので、米国ゼロックス社に頼み込んでアメリカ向けの機械にコントローラを彼らの工場で組込んでもらって出荷するなど、ありえない裏技を使ったり、協同開発をしているアメリカのベンチャー企業に1年出向したり、なかなか、大変な年月でした。
<日本帰国後の毎日>
年月は瞬く間に流れ、20代で海外に出て、アメリカで40歳になってしまいました。最後の年は開発拠点の分室として、カリフォルニア大学内の大学の運営するオフィスに拠点を移し、LAから毎日片道50Km通勤しながら通っていました。まだまだアメリカで頑張りたかったのですが、家庭の事情があり、帰国することになりました。
帰国後、開発部門の課長となり、開発スケジュールに追われる地獄のような日本の社会人生活が始まりました。思った以上に馴染むことが出来ず、苦労しました。今の若者が管理職を罰ゲームと見るのも良くわかります。
その後、本社の経営企画部へ転部し、少し時間が出来たので、少しは経営の勉強もしなければ、ということで大学の経営学修士課程に進学しました。ところが卒業後まもなく、コニカとの合併の話が持ち上がり、合併に向けての協議に奔走するはめになってしまいました。両社間の調整は思ったより大変で、結局、アメリカの社長をしていたUさんに引きずりだされ、アメリカ、ヨーロッパ、オセアニアの各現地法人への折衝の旅に出るはめになりました。海外では同じポジションの管理職は2人いらないので、両者のうち、どちらかの管理職が退社となるため、ピリピリする対応をすることになりました。
<独立起業時代>
会社での仕事に何の不満もありませんでしたが、人生を見直すために私はついにサラリーマンを辞めることにしました。
「他人に人生を決められてはだめだ。自分で人生の主導権を握らなければ。」と考えました。無謀にも46歳で会社をやめ、独立することにしました。
その後、シンガポール、マレーシア、中国、ニュージーランドを回りました。ニュージーランドではコニカとミノルタの合併で会社を離れたミノルタニュージーランドの社長(NZ人)がシャープの現法の社長になっていたので家に遊びに行ったりしました。ニュージーランド法人では社員の大半が失職したため、社長が最後まで社員の転職の面倒を見て、最後に社長が去ったという話をしていました。それにしても仕事が見つかって良かった。
並行してニュージーランドの労働ビザを申請しており、技術者の経験、MBAの学位とIELTSの英語の点が功を奏し、就労ビザが下りました。しかし、結局、家族の合意が得られず、日本で起業する道を選びました。
ここから、東京での株式会社COSYの起業、リーマンショックの直撃、苦労の創業人生が始まることとなりました。
創業当初はプリンタメーカーへの技術支援、海外企業の技術の日本への売込みを主にやっていました。大学の講師も引き受けたり、アメリカの投資家の業界分析相談にのったり、携帯電話の暗号化通信など、畑違いの仕事もこなしてきました。出来ることはなんでもやる。という精神でやってきました。この立上げ時期でサラリーマンをやめたときの退職金などすべて使い果たし、スッテンテンになってしまいました。MBAの知識は零細企業にはそのまま当てはめることが出来ず。銀行対応、会計処理など、簿記の知識の方がよっぽど役に立つという感じでした。
その後、カナダのベンチャー企業とCOSY Print Job Monitorというツールを商品化したり、FM Audit, Printer logic, PaperCutとプリント管理ツールの世界にどっぷり浸かっていくことになりました。
<次のステージへ向けて>
この度、20年にわたる株式会社COSYの代表を退き、今までの知見を世の中に還元して行くことを目的とし、2026年1月に新会社COSYジャパンを設立しました。
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新規事業の立案
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新商品のマーケティング
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社内技術の商品化
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海外展開
私の知見が役に立ちそうだと思われる方、ぜひ、お声をかけていただけましたらと思います。初回相談は45分のWeb会議を無料で対応させていただいております。(ただし守秘義務がありますので、プリンタ業界の話は対象外とさせてください。)